「桃を植えなさい」って言われて、そこから流れが出てきて、母方の戸籍などを調べたりした。こういう時の「流れ」というのは、見えない存在とか、そういうのが流れを作るんだと思うのね。その流れというのは、一歩先への導きという感じ。その一歩を行くと、次の一歩が導かれる。
その時の流れは、ここに。
- 母方の血を辿る。母にも記憶がない祖父の供養。 2025年5月6日
- 曾祖父母の供養|私の心と体は感謝で満たされる。 2025年5月17日
あと、この記事もそういう関連のことだけど、パスワードをかけてる。パスワードは、知ってる人は知ってると思う。いつものだから。
- 保護中: 血のバトン。家系の因縁で感じたこと。 2025年4月23日
きょうだい、甥や姪は、血縁ではあるけど、私と直接血が繋がっているわけではない。それでも、チームというか、両親やその先の先祖から受け継いだような、繰り返される似たような物語があって、それはバトンというか、因縁というか。それは、ある種の課題のようなもので、子孫とかでその課題を解いていく・・・のだと思っていた。私は、20代の頃から、そういうことを考えたり見つめてきていた。だから、そのヒントをチームメンバーに伝えたいと思うんだけど、それはどうもうまくいかない。より拗れていくの。
この前も、母方の祖父母と、曾祖父母の事を伝えようとしたら、それは必要ない、知らなくていいと、弟に言われた。
同じ親から生まれて、同じような環境で育っても、価値観や、見ていること、感性とかも違う。全く、、、とまではいかなくても、すごく違う。それは、苦しいくらいに、ストレスになるの。というのも、多分だけど、同じような血が流れているから、より反発し合うのかもしれない。感性や感覚が違うというのは、波長や波動が違うってことなんだと思う。
彼らと関わった後は、とても重苦しい気持ちになるんだ。懐かしい感じなんだ。これが私がいたところの空気だったなと。
私が家族といれなかった理由の一番は、正直とか、素でいることが許されなかったのだと思う。家族のみんなは、父の顔色を伺い、言葉や態度を選んでいたと思う。父が法律だったから、そうやることが、その家の中がなんとかうまく流れる方法だったのだと思う。
でも、いつも苦しかった。濁流のようなエネルギーだなぁと感じたりしてた。いつも家族の中の誰かを悪者にする。どうしてそんなことが起こったり、そういう状況になるのか・・・。すごく、すごく、考えたり、悩んだりしたよ。でも、そこに、私にはこの家族や環境を選んで生まれている意味の一つがあるんだろうなと。そこで、私は何かを考え、学ぶんだろうな・・・。って。
母方の祖父母や、曾祖父母の中であったドラマのようなものは、確実に繰り返されてると感じる。だから、それらのドラマを推測したり知るのは、解くためのヒントとか鍵になるんだ。だけど、それは、誰かが言ってもダメみたいで、本人が自分で気づかないと解けないように思う。教えてあげたい、と思っても、それはお節介で、その人自身が自分で気づいて、学ぶ機会を、なんというか、気持ちを含めて拗らせる。「ありがとう」と言って、受け取ったとしても、誰かに教えてもらったことは、自分で気づいた訳じゃないので、多くの場合頭でわかっただけになって、心や魂はついていっていない。だから、なんというか、いろんな意味で拗らせるんだと思う。
それは、スピリチュアル系の、なんというか、教えてくれる人たちとか、いるでしょ、なんていうんだろう。見えるとか、聞こえるとかの人たちね。教えてあげたとしても、あまり意味を為さないで、多くの場合、拗らせるように感じる。前世がどうとか、その家族との前世の関係がどうとか。先祖がどうとか。言っても、それでわかったつもりになったり、お金を払って、供養みたいなことをしてもらったり。
今回、いろいろ、ずっと考えてて・・・。気づいたこと、というか、こういう考え方もあるんじゃないかって思ったのは。
生まれてくる魂が、その親や環境を選んでる。スピリチュアルでは当たり前に言われることだけど、家族の関係でいろいろある人は、感情的にまずはこれを受け入れることが大きな壁だったりする。
だけど、やっぱり、これが生まれてくる時の自分自身の、魂の選択で、その時には、そこの家系にどういう物語があり、テーマがあるのかを解っていて、が自分が経験したり、学びたい、解きたいテーマで、そのテーマがあるからそこを選んでるんだと思うんだ。
それを、誰かが、こうだよ、ああだよ、って教えてあげるってことは、その人の経験したい、学ぼうとしていることを邪魔というか、その人の魂への信頼と尊重の欠如なのかもしれない。
家族として生まれて、かぶるテーマもあるかもしれないけど、それぞれにとって深い、違うテーマを持っている。私が今こうして、こんなことで、悩んだり、考えたり、すごくしていることも、私の魂の考えたい、学びたい、経験したいテーマなのかもしれない。その答えは、誰も教えてくれないし、正解の答えはないと思う。その時の、その段階の、自分がとりあえず納得する答えで、2年後、5年後、10年後には、答えが変わっていると思う。それが段階で、学ぶためにとても大切なことなんだと思う。で、それは、誰かが教えてくれることではなく、その段階、段階で自分が気づいて、心や魂に落とし込んでいく。そうやって、一段ずつ階段を登るような感じというかね。
供養をするっていうことも、それは、供養される側がどうとかじゃなく、自分がお茶やお菓子、お酒や肴、食事を、振る舞って、同じ時、同じチャンネルで通じ合いたい、ってことなんだと思うんだ。そういうチャンネルを通じ合わせて、心というか、魂とつながったり、話し合ったりする。生きている人たちとどう向き合うかと、あまり違いないんだ。
だから、自分が良くなりたいとか、守ってほしいとか、災いを減らしたいとか、そういう気持ちがある人は、生きた人にも、死んだ人にもそういう気持ちが根底にあるのかもしれない。
辛い思いをして、かわいそうというか、気の毒というか、救いたいというか、そういうふうに思う人もいるかもしれない。だから供養しなくちゃと。でも、それも、生きている人に置き換えてみると、なんというか、違う気がするんだ。私だったらそういうふうに思われたくはないな。失礼だなぁと思う。
だけど、先祖のことは、いなかったようにするよりも、そういうのでも存在を感じて、手を合わせることは大切なことだと思うんだ。そういう段階であって、自分が段階を経て変わっていけば、人との関わり方や理解の仕方も変わるように、変わっていくんじゃないかって思う。私がそうだった。段階なんだ。
それぞれの魂が、それぞれのテーマを持って、その家を選んでる。それは、家族だからとか、きょうだいだから、ってわかる事じゃなく、自分で気づいて、自分で向き合うしかない。余計なお世話だと。で、誰かの課題に頭を突っ込むんじゃなく、自分の問題、自分の課題、自分自身と向き合うことが大事なんだと思う。
もし、家系での因縁で面倒なことがいろいろあったとしても、先祖からの因縁が災いをもたらしているのではなく、その因縁があるところをみんな自分で選んで生まれてきてる。そこに生まれることで、そういう課題や学びを経験することが出来る、先祖は魂の縁としては実はそんなに深くないケースが多い気がするんだ、でも先祖というのはそういう機会を与えてくれている。そういうふうに心の底とか、魂から思えるようになったら、人生の景色が変わる。生きる意味が変わってくるように思うんだ。
で、教えてあげたい、気づいてもらいたい、と思っても、本人が気づくことを、その人の魂を信じて、尊重することが大事なんだと。こうやって書きながら、自分に言い聞かせてる。
正しいとか、間違ってるとか、いいとか、悪いとかじゃなく、いろんな段階があるんだと思うんだ。そん段階は上とか下だけじゃなく、横や斜めとかにもある。だから自分で解ったつもりになっても、その斜め後ろは見えてなかったり、気づいてなかったりする。自分もそういう段階。
メルマガでお知らせした、因縁に関するお話の会。ちょっと待ってね。