一つ前に記事。

そこから、またしばらく考えてた。どうやったら卒業できるのか。

頭ではわかっていても、心は本当にそれでいいのか、準備できているのか。私は、この経験からちゃんと学んだのか。

そんな、自問自答を繰り返していました。そう、人は、頭でわかったら、わかったつもりになってしまう。心と魂は理解して、納得して落とし込めているのか。

どうして、あんな、こんな理不尽な目に遭うんだろ・・・。どうして、どうして。そんなことを30年以上考えて来たと思う。

それで答えは出たのか?

今思うことは、頭とか理性で納得できる事、理解できることではなく、経験を通じて、時、時期があるんじゃないかと。今回、父のことで、十数年ぶりにきょうだいに会った。父が亡くなることで、何かが終わった気がした。もうそれぞれの人生を、それぞれの因果を、それぞれ生きていく。きょうだいは、魂の学びの大事なチームメイトだけど、父が亡くなったことで、そのチームは解散したというか、それぞれの道に行く。

そんな時が来たのかもと。

振り返ると・・・本当に、理不尽で、ゆるしがたいこともいくつかあった。とはいえ、私は「ゆるす」というのがよくわからない。理解し、尊重し、手放す。

それが、「赦す」なのかもしれない。

誰かに言われてできることではなく、自分と向き合い、折り合いをつけながら、そういう段階を踏んでいけるのだと思う。

ゆっくり、静かに、見つめながら・・・どうやれば「卒業」ができるのだろうかと。

 

感謝しかないのかも、と。

そこに、愛が加わる。

その愛は、相手の選択、生き方の尊重。

その人の魂と、宇宙というか、曼荼羅というか、感謝と愛を送る。結局、大きな、大きな・・・自分を含む、相手を含む、曼荼羅。

私がどうしてあんな目に遭ったのか。もしかしたら、そんな目に遭わせた過去があるのかもしれないし・・・。そういう目に遭うことで、学ぶことがあったのだとも思う。その人を恨んでも仕方なく、それでも心と体の傷は癒やされず。誰かにそのような痛みを与えることの意味を考える。カルマの法則は、宇宙に任せて、私がジャッジしたり決めたりできることじゃない。

多くの人は、痛みや苦しみがない方がいいと考える。

でも、痛みや苦しみがないと、気付けないことがたくさんある。

昔から、よく思っているのは、そういうことがあるから、立ち止まり、考え、時として苦しみ、嘆き、悲しみ、怒り・・・その苦しみから解放されたいから、さらに考え、もしかしたら何かに気づける。

もう、卒業だ。

あとは、もう、多分、引き継がれた因縁を姪や甥たちが引き継ぐ。いいえ、彼らは、その因縁があるところを選んで、生まれてきた。

もう、次の世代へ。

 

 

深く、深く考える機会をありがとう。

痛みや苦しみは、不幸ではない。立ち止まり、考え、気づくためのチャンス。

誰かの人生を変えること、考えを変えることはできない。

自分で気づいて、自分で探求し、自分で考え、自分で選ぶ。

次のフェイズへ。

私は、私のチームメイトを愛してる。愛してるから、苦しんだんだと思う。