今でも時々、「なんで猫と、猫たちと、暮らしてるんだろう・・・」っと。
19歳の頃、ちょっと猫を飼ってたけど、ニューヨークに行くので、弟に猫を預けた。無責任だよね。だから、二度と動物を飼わない、と決めた。
でも、なんでか、今、猫たちと、暮らしてる。暮らせてる。
「暮らせてる」というのは、現代の暮らしで、特に、私のように賃貸で暮らす者にとって、ペットOKの物件は少なく、割高だったりもする。そもそも、動物とくらすことなんてしたいとも思わなかったので、そんな条件をつけて住処を探さない。
だけど、ここは、ペットOKの物件。引っ越してきた時は、前に住んでいた人が、猫と暮らしていて、家の中滅茶苦茶にしてたのよ。臭いし、汚いし、ガリガリしてボロボロ。
臭いの問題は、大家に相談してもどうもしてもらえず、色々試して、漆喰で抑えることができた。
ガリガリしたところは、カンナをかけた。
障子は全部破けてボロボロ。風呂場は、汚く、猫の毛がいっぱい。
近所のお婆さんが出て行って、この町の野良猫と関わるようになった。一匹だけ、面倒を見てみようと決めたのが、リラ。だけど、この町の猫の問題は、まじ深刻で、結局この一年で四十匹以上の猫に出会った。うちは、今は、4匹の面倒を見て、猫たちと、暮らしてる。
ここの猫が問題なんじゃなくて、人間というか、社会というか、価値基準とか、意識とか、そいうのが、問題というか。でも、それは、ここだけの問題じゃなく、日本の多くのエリアで起こってると思うし、保護活動というのも、なんというか、色々、なんというか・・・いいことをしているという感じが否めない。「いい行い」というのがあると、「悪い行い」というのが、自動生成される。だから、保護活動の人たちとも、価値観とかが違って、折り合えなかった。
そういう巡り合わせで、流れで、そういう人間たちの社会のことも含め、いろんなことを考え、気づく、なんというか、そういう経験をする必要があったのかもと思う。
あと、メルマガにちょっと書いたけど、因果というか、19歳の時にいた2匹の猫。その時の因果を今こうやって精算させてもらえてるのかもしれない。
そうやって、この流れとか、出会いとか、経験を受け入れた。
クソ大変で、どうしようという意識の時は、どうして、こんな目に遭って、こんな手がかかって、出費も嵩んで、どうしよう、くそーーーーっておもってた。
でも、そういう流れで、多分19歳の頃の因縁で、と受け入れると、猫たちとの関係から得ている事に、色々と気づく。
何よりも、誰がどうしたとか、無責任とか、いいとか、悪いとか、そういうのより、私に今必要な経験だと受け入れた。経験って良くも悪くも因果を作る行為ね。
何よりも、リラから得るものが大きい。リラの波動が、すごくいいの。信頼感とかもすごくあって、そういうのが全て波動で伝わるの。で、波動というのは、影響し合って同調していく。そうすると、よりリラと波動があって行くの。
リラは、誰とでもうまくやれない子で、ちょっと繊細なんだけど、そんなリラが「信頼」から出す波動は、「愛」なんだよな・・・。で、私の中にも、愛とか、優しさとかが、育って行くというか。
波動・・・。
言葉が通じないかもだから、波動でコミュニケートするしかないしね。そうなると、波動というか、見えないエネルギーをより感じ取りやすくなる。
つくづく、私に必要な経験なのかもと思う。いろんなことを感じ、気づく。自分自身の事も。
とはいえ、この家だから、出来るんだよね。もともと猫でぐちゃぐちゃにされたのを色々修復したら、ちょっと傷つけるとかは気にならない。日中はみんな外で走り回ってたり、寝てたり。
そういう全てが、そういう流れで、巡り合わせで、私に必要な経験で、そういう因果を紡いでるんだろうなと。