遠いお国で育った人を観察していると色んな発見がある。
ニューヨークから帰って来てから、米國に亡命?移住?したキューバ人ミュージシャンを観察しているでしょ。フェイスブックの投稿を見てると、時々違和感を感じるの。
彼は、光る宝の様に、libertadとかつぶやく。
「自由」ね。
なんか、「うざっ」、って感じた。
違和感を感じた時って、自分の中の何かとフィットしないってことだと思うの。そういう時は、考える。
もしかして、言論の自由とかないのかな?とか思って「キューバ・言論の自由」って検索してみた。
キューバという国の内情とか暮らしとかを調べると、社会主義国で医療や教育は無料で最低限の生活を与えてもらえるんだけど、結構厳しいようで、特にソ連が崩壊して、アメリカと表向き仲良しになった時代とかから生活もより厳しくなってはいるみたい。で、言論の自由とかもないみたいで、色々出てきた。
⇒ハバナ市内の沈黙によるデモ行進でこの国の〈不自由〉と〈自由〉を知る
細かい説明は省いて、今回のテーマにワープするね。
で、よくよく考えたら、キューバ人にとっての不自由と、日本人にとっての不自由は意味や種類が違うんじゃないかなと、思ったの。
キューバは国の法律等で制限・抑圧されているんだよね。(カストロは外国への移住や亡命は容認しているみたい)
日本にいると息苦しさや抑圧を感じるよね。多くの人が自由じゃない気がしてると思う。でも、よくよく考えたら、日本の国って、すごく自由で寛大だと思ったの。で、ふと思ったの。私って、かなり自由だと思う。ほぼ何も抑圧が無い。日本人という利点もかなり享受・利用している。それは、海外で色んな事を見て感じたから利用できているのかもしれない。自分で仕事をしているので、誰かに雇われている(飼われている)訳じゃない。だから餌は自分で捕ってこないといけない厳しさはあるよね。だから社会やコミュニティからも自由だったりする。孤立したり、嫌われたりするリスクも解って、嫌な事は嫌とか、そこから離れたりする(それでもお陰さまで、お友達やお客様には愛してもらっている気がする)。
日本での不自由は社会・コミュニティ・家族等からのものじゃないかな。と。
実は、自分の選択次第で、とっても自由に生きられるのが今の日本かもしれない。
周りの顔色を見たり、自分の利益を考えたり、嫌われないように仲良くしたり、嫌だけど人に合わせたり、そういう事をあまり考えないようになったら、結構自由になれる。で、国は他国に比べると結構寛容だと思う。
アメリカは自由の国。と、言うけど、それ程自由だとは思わない。
一見自由だけど、そうじゃないな、って良く感じる。
ある程度の自由を与えながら、すごくコントロールして国民の意識や思想を操作している気がするのさ。それがいいとか悪いじゃなくて、それで愛国心を持てるんだったら、それもありで、私の国じゃないしね。
自由にも色んな種類や意味がある気がしたの。
インドや東南アジアを旅して、日本ってすごいな、ってよく思った。
まず、衛生ね。そして何より、透明できれいな水が、蛇口をひねると出てくる。それって、すごい事だと思う。旅の間、何度「臭っ!」って思って歯を磨いたか。場所によっては宿の人がお水を定期的に買ってタンクに貯める。で、これも、臭いの。でも、わざわざ買っているのを知ると、水無駄に使っちゃ申し訳ないな~とか。節水したり。で、現代の日本に生れた事にすごく感謝したり。
文句いうのは簡単。
ストレス溜めてきついのも自分。
でも、日本での不自由、その多くは、自分が作り出しているんじゃないかな。と。
で、自由には、
孤独、孤立、責任。がセットで付いてくる。
それを受け取る覚悟があれば、いつでも、結構大きい範囲で自由を享受できる。そんな気がしたの。
日本は「和」の国よ。
でも、もう世界中の価値観が入ってくる時代。
違いを「尊重」して「和」を持ってほしい。
それが可能な人種だと思うのよ。
「自由と不自由は相反する互いの観点があってこそ存在する定義」
私の中学時代の友人の言葉。
何に不自由と感じるかで、その人の自由の意味もそれぞれな気がする。
で、抑圧されていると、反動付きで表現してしまったり。
だから、光る宝の様になってて、うざかったのかもね。
↑この辺りの人の心理についても書きたいわね~。気が向いたらね。