昔、昔、といっても、きっとまだ2~3年位前。
私も、人に理解してもらいたい、と、思って一生懸命だった、かも。と、思う。
例えばある事柄に対して、
①説明しても理解できない人
②説明したら理解する人
③説明しなくても理解する人
とりあえず、おおまかにこんな感じで分類。
思考の回路とか、視点とか、経験とかが全く違う人はどれだけ説明しても理解できない事も多い。それに必死にエネルギーを使うのはもうやらなくてよくなった。人に理解をしてもらう事にあまり重要性を感じなくなかったの。「人に理解してもらう」って、子供じみているって思うようになった。でも、よ~く、よく、考えてみると、多くのひとが自分の事すらちゃんと深く理解できてないし、人間って、いろんな面があると思うの。そのどの部分を理解してもらいたいのか。一番身近な「自分」が自分をと向き合い自分を知って行く事の方が有意義だと思うの。
感情解放で最も大切な作業はそこなの。
そのしくみに、気が付いてくると、自分に理解しきれてない自分を他人に理解してもらいたいなんて、無理難題でしょ。って、思いだす。
仕事を通じて、いろいろな人の人生や心を見せてもらう。
本当に人生は色々。
子供の頃に貧乏だった人の気持ちを裕福に育てられた人が本当に理解できるか。
裕福だったけど、体裁を気にして育てられた人の複雑な思いを本当に理解できるのか。
子供の頃に親に捨てられた人の気持ちを理解できるのか。
一見、何不自由なく育てられたのに空虚感を感じている人の心を本当に理解できるのか。
いろいろな経験から、歪んで行って、色んな防衛方法や生き方を身につけて行く。表にある面と内側は違う。一見単純に見える人も、単純なんじゃなくて、深く考えたり追求をしないのかもしれない。40歳を過ぎた人ってそれぞれいろんな経験があり、色んな常識があり、色んな思い込みがあり、複雑だと思うの。
育った環境、歩んできた道、経験が違う人って理解が難しいと思うの。解ったつもり、解ったふり、をする人も多いと思う。私も、解った、って思ったら、またその人の別の面を見つけて、解ったつもりになるとダメだな、って思う。だから、ある程度の深さや、問題を限定して要因を探すようにしている。ひと一人の全てを理解する事は本当に、本当に難しい。無理でしょっ。
そういう、人間の事や「自分」の事を自分が理解していたら、人に解ってもらいたいという気持ちが減ってくる気がする。
依存心のある人はよく、ある部分を理解してもらえたと思って、その人を信頼する。でも、別の部分を理解してもらえなかったら、裏切られたような気になる人もいる。私も昔昔、そのまた昔はまさにそういう人だった。でも、それって、子供じみてたって、思う。でも、あまりにも、人から否定をされると、自分を理解してもらわないと、支えてもらわないと、くじけそうになるよね。
私も、友達にはよく助けてもらってるっ。
でも、使い分けてる。
こういう事は、この人。
こういう事は、この人。って。
電話かける時に、誰にしよ~、って。
いつも、ありがとうございます。m(__)m
歩んできた道が違いすぎると理解出来ないくて溝が出来る事もあるよね。でも、どれだけ違っても、理解できなくても私を愛してくれている人もいる。それは、彼女と私の歴史が築いたものなのかも。彼女は私を理解しているのか。彼女は解らない事は、解らないという、でも愛してくれているのは解る。
育った環境、歩んできた道、経験が違う。「違う」と、認識する事はとても大事だと思う。
何が言いたいかというと、
人に自分の事を解ってもらったり、理解してもらいたいという気持ちは、はやく棄てた方がいい。
その時期、その時期に、共通の話題や、共通の興味、共通の嫌な上司、似た経験、その共通の部分で理解・共感し合えるとおもう。それより、大事なのは、自分と向き合い、自分を知ることだと思う。
全部共感できる人、理解してくれる人なんて、世界中にいるのかしら?だから、「違う」という事を認める事が大事だと思うんだ。その為には、自分が人と違う、自分の異質な所も知って受け入れるといいと思う。そしたら、他人のそういう所も受け入れられるようになると思うの。
そう願うっ。
よろしくっ。