(2018年に海外に行く、メリットを改めて考えてみました)https://crystallize.jp/archives/13776
よく、海外に行ってしまう。
それが、いいのか、悪いのか、何なのか、時々考える。
今日は長い。
でも、この文章から、遠い他人の経験を読むというより、20歳だった頃のあなたに擬似的に被せて読んでみて欲しい。目の前に当たり前のように回ってくるドラッグも、自分の前にそれが回ってきたかのように想像してみて欲しい。でも、想像と体験は違う。海外に行くと、日本では体験できない経験がその人を大きく変えていくと思うんだ。
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私は、よく、日本から逃げるように海外に行ってしまう。
日本の、この場所、故郷にいる時に、息苦しさや、ここにいる事で煮詰まって行くというか。でも、横浜にいた時は結構平気に暮らしていたと思う。何が違うのか。人との距離感や関わり方が故郷って違う気がする。故郷だからなのか、この土地だからなのか、もしかしたらこの規模の街は日本中似ているのかもしれない。まだ解らない。
で、結局、逃げ出すんですね(笑)
始めて海外に行ったのは、20歳になってすぐのニューヨーク。19歳の頃に働いていたスナックのママの友達の友達が日本人のウェートレスが欲しいって。アメリカ音楽と文化にすごく憧れてたから、行きたい!って思った。
私が遊んだり、暮らしたりしていた小倉という町が好きだったし、遊び友達もいっぱいいた。彼らとの別れをかなり激しく惜しみながらも、新しい世界への興味と恐怖もあったな、よく解らないまま飛んで行った。NYに着いたら、荷物が無くなって、結局出てこなかった。NYの空港で泣いた。
ビザも法律も、なんにも、かんにも、解らないまま、大西洋がどこにあるのかすら。だから大変だったし、色んな目にあった。郊外のレストランを追い出されて、真夜中のマンハッタンに辿りついたり。あの頃のマンハッタンはまだ治安も悪かった。そんな事は、この街に住んでいたら起こらないし、不要な事。
世間知らずで、ちっぽけで、ちょっとおバカだった私には、ニューヨークはとっても辛かった。国際電話も当時はそれほど安く無くて、毎月200ドル位は払ってた。よく泣いていた。英語も全く駄目だった。マリワナやLSDが好きな人達とよく遊んでもらった。でも、薬とかが回って来ても、殆ど手を出さなかった。マリワナもコカインも自分にとって、法的、経済的な事と秤にかけると魅力的な物ではないと思ったから。LSDもマジックマッシュルームも未だにやった事が無い。でも彼らはとても優しかったし、まっすぐだった。
NYで、何してたかというと、カラオケバーでバイトして、よく解らない、大きな、大きな街の隅っこで泣いてばっかりだったのね。日本を出るまでは、親や、地元の人達に庇護されて、子供だったと思う。
もう駄目だと思って、半年位で日本に逃げた。
でも、日本に帰ってくると、刺激が無いの。友達とも少しずつずれが生じてきてたり。まだまだ、若くて自分が無かったから、私はグラグラになったと思う。私は、クラブとかディスコとかの交友関係が多かったんだけど、当時はまだこの町からNYに長期滞在をしたりした人も周りに少なかったから、「ニューヨーク帰りのショーコ」と、よく言われるようになった。
自慢できる事なんてなんにもないけど、「ニューヨーク帰り」というのが、私の看板とタイトルみたいに。で、刺激も少なく、何かに退屈を感じて、またNYに行こうと、お金を貯める。ビザの事もちゃんと調べた。
2回目のニューヨークは、半年のビザをきちんと取って、滞在期限が切れるちょっと前に、コカインばっかりやっていたルームメイトが出て行き、その後、空き巣にやられた。大家に言われて、すぐに近所の住人に連絡したら、ワインを出された。警察はルームメイトを疑えという。でも、実際は黒人かヒスパニック系の色の黒い人系の人が犯人だった。ワインは、落ちつきなさい、という思いやりだったと思う。ルームメイトを疑うのはあの街では当たり前の様だった。その後すぐに、日本人の友人が「うちにおいで」と言ってくれて、イーストビレッジの彼女のアパートでシェアを始めた。
その頃は、NYも楽しくなって来ていたので、そのままビザを振り切ってNYに留まろうかな~、とも思っていた矢先、そんな事があったので、びびって、これは、神さまのメッセージだわっ、って思って、なけなしのお金でチケットを買って日本にビザ取得の為に帰国した。
日本からNYに戻ってくると、前日、イーストビレッジのすぐ近所の知人が強盗に遭い、殺されてた。犯人はプエルトリカンだった。
当時の彼氏は、ニューヨークで生まれ育ったアメリカ人で、私がビビりまくって怖がって暮らしているのに、理解が出来なかったの。育った環境が違うから、私の恐怖心が理解できなかったんだと思う。でも、その頃の私は彼が何で理解できないのかが解らなかった。それから2年位、イーストビレッジに住んだのかな。でも、やっぱり、弱い、ちっぽけな女の子だった私は、精神的に弱って、日本に引き揚げた。
日本にいると、ニューヨーク帰りだからか?ハシシやマリワナを親しさの証の様に勧めてくれた友人達もいた。イエローキャブという書籍が社会的ブームでもあったので、「黒人はどうなの?」と、聞いてくるオジサンたちも多かった。多分、NYに住む、若い日本人の女子の、勝手なイメージを私にかぶせるのだと思う。
そして、やっぱり、この町は退屈だった。自分を理解してくれる人は殆どいなかった。子供だったからね、理解してもらいたかったんだよねw。
20歳から23歳位が大きな転換だったと思う。以前の価値観や常識を持ちながら、環境の変化でグラングランになってたと思う。精神的に弱ったと言っても、もうNYが好きになっていたし、帰ると決めていたから、アルバイトに励み、半年か1年後に学生ビザでまたNYに行った。やっと英語学校にも真面目に通うようになった。アメリカ人のバンドで歌うようにもなったのは、この時の滞在。
そこからが、意義あるNY生活のスタートだったのかもしれない。それまでは、自分が今までの環境や価値観から脱する為の準備。というか。
29歳で、日本に帰国。
30歳で、夢を叶える。
その後、目的を失い、周りの期待とかもあり、自分を見失ったと思う。
今度は、インドに逃げた。
初めてのバックパッカー。1人のインド。ニューヨークと日本しか知らなかった私は、インドきつかった。今までの自分の価値観がどれだけ狭かったか、一方的だったか気が付いてきた。ホテルから出られなくなる位参って、その時に前の旦那と知り合ったの。2カ月の予定で行ったけど、1ヶ月で、インドを逃げて、イタリアへ行った。
家族との事も色々問題が育ち始めていて、色んな秘密を持ってしまい、辛いので、帰国後は暫くして東京に逃げるように引っ越した。逃げたんだよ。逃げる事が、家族に対して私に出来るせいいっぱいの想いやりと優しさだったんだ。
その後は、東京でホステスしたり、キャバ嬢したりして、お金貯めて、インドで出会った彼氏(前の旦那)とまた旅に出た。インドのリベンジもあったので(笑)
その後、結婚⇒離婚。離婚後すぐにNYに3カ月。自分の人生を整理する為に。
日本で、ひとりの人生の再スタート。
2年後かな、NYのベーシストで恩人が病で、2週間NYに。そこからまた私の音楽人生が始まる。
震災の後は、故郷に戻り、戦争の歴史に没頭した。ら、今までの価値観が揺れ始めた。家族の事で辛い事があり、逃げるようにNYに行った、ら、ラテン文化との出会いが始まった。
おもしろがって、遊んでいたら、気付いたら、踊り始めていた。戦争の歴史をやってから価値観が壊れてどうしようもなくなっていた私は、半年前NYでやる事が無くて困っていたから、踊る事にした。気が付いたら、キューバ行きの風が吹いてた、から、なけなしのお金で、キューバに行った。そこで、また別の価値観や世界を見て、その世界を私の視点と感性で知りたいと思い始めた。
ダンスをしていた私はキューバとNYでは笑いまくってた。元気だった。
日本に帰国後、2週間でもう笑わなくなっていた。
ひと月後、体調がおかしくなった。
ふた月後、マジで身体に異変が起きた。
=======つづく===============