昨日、ブログに書いたけど、村上龍さんの、KYOKOを読みながら、大好きだったレナードガスキンの事や彼との思い出を想い出したら、涙が出た。

レナードがくれたものは、温かで、シンプルな、でも私の心に深く触れた歓び。

もう、彼が亡くなって、6年。最後にあったのは、6年半前。

想い出しただけで、歓びの涙が出る人に出会えた私は、幸せ者だと思う。また、彼の場合は、亡くなりこの世にいないから、ある意味、彼との想い出は完結しているというか。永久保存版というか。積み上げる事も出来なければ、こじれさせる事や、裏切られる事も多分ないw。

思い起こせば、生きてて、悲しくて、悲しくて、泣いたり、泣き明かした日々ってある。そういう出来事は沢山あった。もちろん、私の場合、家族の事もそうだし、親しい友人との気持ちのすれ違いとか、彼氏に振られたとかw。淋しくてどうしようもなかったとか。悔しさとか、そういう思いも含めて。

でも、そういう事を想い出しても、どうも、もう、私に深い悲しみや、涙を誘わない。

そんな事を、さっき、ふと、考えた。←スペイン語の宿題終わって、一服中にっ。

悲しみや憎しみは、理解をしたり、整理をして手放す事が出来ると、私は信じてる。大切な人が亡くなって、悲しかったとしても、その悲しみは、大切な人との時間が素敵だったから、そのふり幅分、悲しみを感じるんだと思う。だから、そういう場合も、きっと、残るのは、歓びなんだと思う。(←依存関係や依存心があれば歓びに変える事はとても時間がかかるかもしれない)

今でも、レナードを想い出すと、涙が出て、とても幸せな気持ちになる。
もしかして、歓びの持続時間は、悲しみの持続時間より長いのではないかと。

まだ、人生、半分折り返し過ぎた位なので、結論は解りませんが、もしかしたら、そうなのかも。と。死ぬ頃に、また振り返ってみたい。