布団の中で、「寂しさ」について、考えてた。
誰でも、寂しさを持っているのではないか。持っていない人っているのだろうか。
持っていないもしくは、あまり持っていない人ってどんな人か。
■誰でも寂しさを持っているのではないか。持っていない人っているだろうか。
ふと、今まで関わってきた、色んな人を思い出して、考えてみたら、みんな寂しさを持っている気がしたの。
■持っていないもしくは、あまり持っていない人ってどんな人か。
私が思いだした人たちの中で持ってなさそうな人は居なかった。それ程持っていなさそうな人は居るけど、その人の奥を考えるか、寂しさは持っているが、自分の力でコントロールもしくは上手く付き合っているような気がした。もしくは、忙しくしている人は寂しさを紛らわせたり、感じる余裕がないとか。感情面の深く繊細なところを麻痺させてたり、麻痺していたりとか。
一人ぼっちの人は可哀そうみたいに思われる事がある。寂しさって恥ずかしい事みたいに取り扱われる事もある。人から相手にされない、友達がいない人って考えられるのかな、とか。
寂しいから、
孤立したくないから、
適当な人たちとつるむ。
思っても無い事や、嫌だなって思う事にもYESと言ったり、
風俗、飲み屋、浮気、出会い系、そういう所に行ったり、やったりする人たち、本人の認識の度合いはそれぞれだと思うけど、実は多くの人が寂しいんじゃないかとか。気付いてなかったりしても、寂しいんじゃないかな。と。援助交際する女の子たちも、ある部分では寂しさが根底の原因なんじゃないかと。
ここの所、浮気や不倫をした親たちを持って育った人たちの事を考えてたの。家族や子供は大事なはずなのに、どうして彼らの親たちは大事な人たちに嘘をついたりしないといけない事をしたり、深く傷つけたりする事になるであろうことをするのだろうか。と。
そういう事をやった親たちの多くは、浮気や不倫で何かを埋めていたのかもしれないとか。その何かの大元になるのが、寂しさなんじゃないかなと。
で、この「寂しさ」と、「解ってもらいたい」、「理解されたい」、「共感したい」というのは人によっては太いケーブルで繋がってるんじゃないかなと。
子供の頃に、親や家族としっかり信頼を築けた人はその先の人生が生きやすくなると思う。
丁度ひと月前に書いたけど、公開してなかった記事。(今公開にしました)
≪ひと月前の記事からの抜粋≫
この前読んだエーリッヒ・フロムの「愛するということ」。ここにはいろんなアイデアがあった。
エーリッヒ・フロムという人はユダヤ人で、1900年にドイツで生まれ、1933年にアメリカに渡り、1956年にこの本を書いているの。この本の中に私が立ち止まってしまった事を説明できるような箇所が沢山あったの。資本主義がもたらす社会や価値観の構築とかそういう事とかも。
この著書で最終的に書かれている事は、「信じること」。自分を信じ、他者を信じる。
他者の可能性を信じる。
信念と勇気。そんな感じ。
とにかく、私の言葉じゃ説明難しいし、この本は結構面白いので興味のある人は読んでみて。
信頼を築ける人になる事は人を愛する事が出来る人になれるのかもと。
尊重してもらえたり、受け止めてもらえたり、向き合ってもらえたり、そうやって信頼を築ける人に育って行く。自分を信じる事が出来る人間に育って行く。
自分を信じる事が出来る分だけ、他人を信じる事が出来る。
言い換えれば、自分を愛する事が出来る分だけ、他人を愛する事が出来る。
そこが育ってない人は、信じる事や愛する事が「依存」や「期待」になるんじゃないか。そこが育った人は、人間が持つ孤独や寂しさをしっかり受け止め生きていけるんじゃないかとか。
そんな親たちじゃなかった、そんな環境じゃなかった。と言うのは、バレエやピアノを18歳から始めた人が5歳から始められなかった、音楽の環境が無かったから、と言うのに似てて、すごく大変かもだけど、生き方を考え、自分を見つめ、努力したらある程度はなんとか出来るものだと思う。
生きやすくなれるんじゃないかなと、思った。
次の記事に続く・・・