先日、十数年前に結婚して札幌に引っ越してきた友人に会った。
24~5年前、ニューヨークで同じお店でバイトしていて、家が近かったから一緒に夜中に地下鉄で帰ってた。
地下鉄の駅で、
「「ちび」って呼んで!」
子供のような無邪気な目で言われた。
156センチしかない私の目の下に頭のてっぺんが来る。
下から私を見上げて。
無邪気な目だったんだよ。
当時は夜中に地下鉄に乗るなんてよくない。仕事が終わると、きったなダサい服に着替えて帰宅する。一緒に帰るのは安全の理由もある。お金が有り余っていたら、夜中に地下鉄なんて乗らないさ。そう思うと人は何かが欠如してたほうが、助け合ったり、親しくなれるのかもしれない。
でも、何かが欠如したり、生き残りたい感が強いと、騙したり、利用したりとかもあるかもね。
彼女とは一緒にどこかに行ったという記憶があまりない。←小澤征爾のコンサートは覚えてる。
毎日一緒に帰宅して、何気に話をして、店の愚痴言ったり、そうしていると身近になって、いつの間にか親しくなってた。
「ねぇ、今考えると、パーティとかって何だろうって思うんだよ。パーティであった人で長く付き合っている人っていないよ。あのパーティ、っていうのは何だろうね。」
親友の、友人が言うんだけど、
友達には2種類ある。
Friends for SEASONとFriends for REASON
その時期だけの友人と、理由があって(私たちの感覚では深い縁)親しくなる友人。
それぞれに、色んな事情があり、忙しかったり、面倒だったり。でも、心を開いて(るからぶつかりもするが)同じ時間と空気を共有した人たちとは、何かが深く記憶というか、細胞に残ってる。
無駄にグダグダやって居る様な時間の共有。意味のなさそうな時間と空気の共有。
目的なんて殆どなく、そういう一見無駄に見える何気ない時間をどれだけ一緒に過ごしたか。って案外大切な気がする。
もう全く違う、日々や生活や価値観の中に生きていても、この年になると、そういう会話が成り立たなくても、その子の中に私が居る事を感じて、私の中にその子がいるなって気づいて、友達っていいなと思う。
「せいなちゃん!これ!せいなちゃんが結婚祝いにくれたカップだよ!!!」
私の方がすっかり忘れてた。
NYに居た頃、私たちはエンジェルが大好きだったの。だからこのカップを選んだの。
金の装飾も一切剥げてなく、どれだけ大切にしてくれてたのか。
ガチャガチャ、前むいたり、振り回ったりで色んな事を忘れてしまっている私。
お互い色んな事があって、年とって、老化して行っているけど、
「「ちび」って呼んで!」と言った無邪気なちびは変わってないというか、私に対してのちびは変わってないというか。
ガチャガチャ振り回ったりで、色んな事を忘れてしまいがちな私も変わってない。
「せいなちゃん、よく窓の下から、「ちび~!!」って叫んでたよね!(笑)」
「え?マジ?そうだったっけ?私キューバ人と変わんないじゃん(笑)」
友達が私の忘れてた記憶や過去の自分を教えてくれるというか。
とはいえ、ほんとに私は色んな事を忘れてしまう。すまん。