ここんとこずっと、色々考えてるでしょ。

で、とうとう、平成もいよいよ終わり。30年。

別に、だからという訳じゃないけど、自分の30年を振り返るきっかけがよくある。見落としそうな小さなきっかけ。そこからすーっと、記憶がよみがえってくるんだ。

令和。新しい時代に変わる。というか、日々生きる中で、流れの中に居たら気づきにくい事も、30年、というスパンで見たら、すごく変わった。自分の若さだけではなく、もう戻る事がない自分が生きた時代を感慨深く思う。

シンプルに暮らしているから、そんな事をゆっくり考えることが出来るんだと思う。

平成元年4月2日だったかな。私が初めてニューヨークに降り立った日。

空港のターンテーブルに、荷物が見つからなくて、JFK空港で泣いた。私が一生懸命アルバイトをしてローンで買った服やモノは無くなった。

日本でのバイト先(スナック)のママさんの、友達の友達がやっているロングアイランドのレストランのウェイトレスで働くという事で行ったの。歌をやりに行ったんじゃないよ。そのレストランで色々大変で、20歳の私は毎日泣きっぱなし。数か月で色んなトラブルがあり、そこを去る事になるの。

レストランオーナー側には建前上、日本に帰る事にしてたんだけど、歌を教えてくれるというオジサンがいて、「彼が歌がやりたいなら帰るな!」って、すごい剣幕で怒るから、ニューヨークに残る事にしたの。

なんで、このおじさんが私に歌を教えるとか言い出したかというと、ニューヨークに行く前いつもディスコで遊んでて、俗にいう常連というかな。そこのオーナーと、DJと、マネージャーがニューヨークに来るというので連絡があり、一緒にマンハッタン観光をさせてもらったの。その時のガイドのオジサンなんだけど、彼はレストランなどで弾き語りをしている人だったの。NYの街の中を案内するたびに私がそこにまつわる1940年代の映画や歌のことばかり話すらしく、それで、歌を教えると言い出したの。

マンハッタン観光した日。空港ですべての荷物が無くなったから、この服は全てロングアイランドで買った物だわ。

でもね、レストランのオーナーが私がNYに残るって知った途端。「今日中に出ていけ!」と言われて、「今日中って事は、今日の零時までですよね!」。もう不安でどうしようもなかった。

レストランにくるお客さまで、時々話をしていたある日本企業の駐在員の方の電話番号を持っていて、彼に「助けてほしい。荷物を預かって欲しい。マンハッタンまで送って欲しい」とお願いして、夜10時に迎えに来てくださり、荷物を一時的に預かっていただき、夜遅くにマンハッタンの歌の先生の家で降ろしてもらったの。45丁目の8番街と9番街の間。まだ、治安が良くない時代のニューヨーク。怖かったし、不安だった。

数日、先生の家でお世話になって、すぐに、日本人のカラオケバーの仕事を紹介してもらい、そのバーのオーナーの家でシェアをさせていただくことになるの。他の従業員と4人暮らし。55丁目のブロードウェイの高層のコンドミニアムだった。仕事は、夜の9時から朝の4時まで。

ほんとに、解らないことだらけで、ほんと、困ったちゃんだった。窓の下には、ブロードウェイダンスセンターというダンススクールがあって、何をしたらいいか解らない私は、歌やってるし、ダンスとかもやってみようかと、たまにそこのレッスンを取ってみたり。タップダンスとかもやったわよ。

仕事場の人たちには馴染めず、当時まだかなり治安の悪かったイーストビレッジのアベニューAに住んでいた日本人の人たちが友達だった。DJとか、ダンサーとか、モデルも居た。彼らの家に良く遊びに行ってた。

今でも忘れないのが、S君っていう同じ年位の子がいて、みんなが私を気遣って色々してくれるのね。その度に私が「ごめんね」というの。

そしたら、S君が真剣な顔して言うの。「しょうこちゃん、僕はしょうこちゃんに謝って欲しくてやってるんじゃないよ。ありがとうって言ってほしい」と言われたの。

私びっくりしちゃった。今まで、子供の頃から、変わった変な子で、みんなのお荷物で、親にも家族にも困った者として扱われてたから、「こんな私に手間をかけさせてごめんなさい」って事だったの。「ありがとう」って言わないといけないんだ。と気づき、気を付けるようになった。

彼らはみんなジャンキーで。マリファナ、マジックマッシュルーム、LSDが飛び交ってた。でも、「私はしないよ」というと、決して勧めてくることはなかった。私には18歳の時に決めたルールがあって、「ヤクザと薬は手を出さない」。ヤクザの街、北九州だからね(^_-)-☆

私はしらふのまま、優しい彼らとよく一緒に過ごした。

みんなでセントラルパークに行ったり。

私、18歳からディスコやソウルバーによく出入りしてたから、そういう話が通じるから、DJやってる年上の女友達が出来た。私もターンテーブル2台買って、家でレコード回したりして遊んでた。

DJの年上の友達がよく写真を撮ってくれた。

よく泣いてた。国際電話代が毎月200ドルくらい来てた。

今の私からは考えられないと思うけど、本当に、弱くて自分が無くて、泣いてばっかりの子だったんだよ。ニューヨークに居ました。なんてかっこいい事全くない。ほんと、泣きっぱなしの弱い子だったんだ。

精神的に耐えられなくて、一年位で日本に引き揚げた。

そういえば、バイト先のカラオケバーに途中から入ってきた同い年の関西のKちゃんって子がいて、彼女とは友達になれて、何度も助けてもらった。今も友達。

平成元年の私の第一フェーズ。回想録とかもいいかもね。気が向いたら続きかくね。

 

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一番上の写真はニューヨークに行く数週間前。まだ19歳。平成元年。

バイト先のママと。ジーンズとか。私らしくやらせてくれた。すごく可愛がってもらった。このころの写真は笑ってないのが多い。時給1000円だったかな。当時地元(北九州)のマクドナルドの時給が470円くらいの時代。