ここの所、ずっと考えてる事・・・。

結局。私の生は親の生の延長にある・・・んじゃないか。ただそれだけなのか・・・。

多くの場合

嫌いだと思っている親。でも、その「子」はその人(親)にとても似ている。コピーとまではいかないけど、何かを引き継いだ。私はよく「バトン」という言葉を使うけど、バトンだけではなく、何かが移行されているような。

育った中での環境要因も影響はあるとは思うけど、それだけではない、もっと深いもの。

 

20代の頃、どうして家系で似たような事が繰り返されるのか、と、考え始めた。

それは将来、年月の経過でどうなっていくんだろう…とも思った。

 

あれから25年。

若い頃は音楽を追いかけた。父の背中を追ったのか、父のやり残しの夢を追ったのか、人生のご褒美のように素敵な出来事がいっぱいあった。

私はきょうだいと憎み合い、絶縁した。父が自分のような思いをさせたくないと、反面教師のように私たちを育てようと、頑張ったのに。

今は、エッセンシャルオイルを売りながら、スピリチュアル的な事を生業としている。

感情解放のコースをしながら、時々お客さまが私にとても感謝をしてくれる。一所懸命はやってる。解くカギが見えなかったり、解き方を模索する。必死。

信者さんに何かがあれば夜中でも飛んで行っていた父。父は一生懸命だったし、手探りの中、必死だった。

違う人生だけど、何かが似てる。

そうなりたかった訳でもなく、流れるように、適当に、生きていたら。そうなった。流れつくように。たどり着くように。

 

私の中にある、自分勝手さ。昔は大嫌いだった。でも、仕方ない。父もそんな自分勝手さを持っていた人。父の自分勝手さを私なりに理解し受け入れる事が出来た時、自分の中の自分勝手さもただの私の中の「私の一部」と感じるようになった。

私の中に感じる「自分勝手さ」を持っていた父。沢山の事を我慢して家族を養ってきたと思う。私にはそんな我慢や犠牲はできない。だから結局「ひとり」なんだと思う。

 

子供がいない方のワークをしながら、子供を産む事の魂での意味を改めて考える。

意味というか。意味じゃないな。

適切な言葉で説明が出来ない。。。

 

父の事ばかり書いたけど、私の中には母の要素もある。あるのだとは思う。でも、あまり思いつかない・・・。環境要因からの要素は解る。あ、あと、字が下手。

3人のきょうだいを考えると、母の家系で起きた事が繰り返されている。

姉も弟も子供を手放した。

弟が息子のもとを去ったのは生まれてすぐだったので、父親の記憶はないと思う。母には実父の記憶はない。

母は父とは再婚で、初婚の時に娘がいる。私がかなり小さい頃少しの間一緒に暮らしていたようだ。施設で暮らしていた時期もあったらしい。父も母もその姉を引き取ろうと頑張ったけど、その子は父と母のもとを逃げるように去った。子供の頃、車で九州から神奈川に行った記憶がある。居なくなった姉を探しに行った。父が決めたんだと思う。当時30歳位だった父。姉は私たちの所には戻って来なかった。多分、みんな、みんな、傷ついてる。その姉は、殆ど記憶にないので、私の中で「きょうだい」として成立していない。どこかのおねえさん。

母の子供の頃の話をあまり聞いた記憶がない。父親が同じ姉が一人。父親が違う妹と弟がいた。

姉には、手放した娘が一人。その子と同じ父親の子が二人、違う父親の子供が二人、一緒に育った。その新しいお父さんは、ある日消えた。

母は実父の記憶はない。姉が連れて行った二人の子供には父親の記憶はないと思う。その下の二人のうち、一番下の子にも父親の記憶はないかもしれない。

父親が違うきょうだいがどういう関係になるのか・・・。多分、母のきょうだいの様な関係性なのかもしれない。

 

親や先祖から、何かを受け継いでいっている・・・。そんな気がする。

それを変えられるのか。それを断ち切れるのか。

それが、因縁を解く、という事なんじゃないかと。

 

父は、祖父と兄(叔父)との間にあった事を繰り返したくないと、頑張った。でも、変えられなかった。

姉も弟も、子供を手放すなんて思ってもいなかったと思う。

 

魂が自らそういう因縁がある家系を選んで生まれて来てるのだとも思う。

 

時々思う。

子供が生まれるという事は、善きこと。新しい命の誕生。自分の種を育てる。家族を持つ。子育てという学び。希望。

でも、その中に、因縁の引継ぎの様なものがあるんじゃないかと。

 

私は子供を産まなかった。この生を終える時、出来る限り人様に迷惑をかけず、絶縁したきょうだいに最小限の手間に出来るよう、身の回りをきれいに整理しておかなければと思ってる。絶縁していても法的に血縁は切れない。

姉の事は憎んでる。

でも、あの人が引き継いでくれた因縁があるから、私は自由で身軽なのかもしれない。そう思う事がしばしばある。

 

一人っ子で、子供がいないひと。

そういうケースをいくつかやってる。

バトンを渡す先はない。やり残しや想い残しをしっかり整理して欲しい。もしかしたら、その家に一代では解けない因縁がもう残っていないのかもしれない。どうだろ。

それと、お墓や家の私整理もしなくちゃだ。お墓を無縁さんにしてはいけない。

一人っ子は色々大変だ。

 

50歳になると、泣いても笑っても、考え込んでも、私が血をつなぐ事は無い。

まだ、道は続いているけど、歩んできた道よりかなり短い。

残りの人生はどんなだろう。

どんな風に、この生を終えるのだろう・・・。

 

私は、父や母から頂いた生の中で、何を受け継ぎ、魂が決めた来た事をちゃんと果たして行けているのだろうか。

もう渡すバトンはないので、やり残しがないように、悔いのないように、先祖の護や導きに耳を傾けながら、歩いていく、行けるのかな。

 

今、この仕事で、食べていけてる。父がやっていたような仕事。その端々で父の思いを知る。

どれだけ離れよう、逃げよう、としても、結局は親や先祖の生の延長というか、繋がった生を生きている。

そんな気がする。。。

 

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写真は父方の祖母と曾祖母。私は生まれたてで母の腕の中です。

あ、この頃、ばあちゃん、50歳ちょっと、多分、52~54位じゃないかなぁ。今の私と同じくらいだね。