そうなの・・・纏まらないままに、悶々と考えてる日々なの。

前の記事から続きね。

SNSなどのノイズを減らす事で、ふと気付いた事があった。

何が幸せとか、って、みんなそれぞれ違う、はず。でも、送られてくる情報によって、受け取ったり、目にする情報によって、その人にとっての幸せがどんどん解らなくなっていくんじゃないかと。

私は、古いURの団地に住んでる。最近、貧困に関する本や記事を読みながら、古い団地って結構貧しい暮らし代表というか、代名詞というか、っぽい。

私は、この古い団地がとても気に入っている。家やマンションなんて欲しくもない。

とにかく、持ち物を少なくして、シンプルに暮らしたい。家も車も私にとっては自分を縛る足枷の様なもので、荷物。メンテナンスやその費用を考えるといい家に住みたいとか、全く思わないの。それより、部屋の中をきれいにしておきたい。車はカーシェアとレンタカーで十分。

ひとり身の私は、残すものが多いほど人さまや世の中に迷惑にもなる。自由気ままに生きてはいるが出来る限り、自分の欲の為に人さまに「迷惑」はかけたくない。

人にもあまり会わない。本を読んだり、考えたり、仕事の対応をしたり。お客さまに時々感謝されり。

ほとんど何もない、きれいに掃除をされたベランダに座り、「私、幸せだなぁ」と、よく思う。

世間の人たちがいう「幸せ」とは全く違う暮らし。

 

私はこれでいいんだろうか・・・と、時々不安になる。

何日たっても、何カ月しても、ベランダで「私、幸せだなぁ」と感じる。

 

だから、もしかしたら、これでいいのかもしれない。

いや、わからない。

 

ひとりで寂しくないのか、とも言われるけど、寂しくないんです。

もしかしたら、数年したら、寂しくなるのかもしれない。

まだ、解らない。

 

家賃も安く、物欲もそれほどないので、支払いに追いかけられるような暮らしでもない。

上手い事を言ったり、媚びる事もなく、地味に働いていればなんとか食べていけるのがとても嬉しいです。

人さまが見たら、貧乏な暮らしなんだと思う。

だけど、欲や不安に振り回されていた頃に比べるととても心地よく生きられてる。

こんな暮らしがいつまで続くんだろう・・・とは思うけど、今こうやって暮らせている事に感謝して暮らしてる。

 

50歳を過ぎて、何かが削げ落ちたような気がしてる。

これも、この数か月、ずっと考えているんだけど、そのひとつはもしかしたら、母が亡くなった事にもあるんじゃないかと。父は生きてはいるとは思うけど、もう会う事は無い。父も解っている。私を支えてくれていた父との決別はとてもつらかった。自分の中の、なんだろ・・・、支えがすっと抜かれて、体の奥や心が立てなくなるというか。キューバを追う事で、キューバでの暮らしに追われたり、キューバの友達との関係の中で私はその決別を乗り越える事が、まぁ、出来たと思ってる。

父と家族との決別から5年が過ぎ、母が亡くなり、母の死に目にも会えず、葬式にも出られず、言い表せない虚しさもあった。

 

どうしてこんな事になったんだろう・・・。

どうして?

どうして?

と考えても、受け入れる以外にない。

これが、私の人生であり、きっと今世はそういう事で、解っていて生まれて来たような気がするの。

とても、とても不思議なんだけど、「納得」をしている感じがあるの。

 

人が聞くと、気の毒な「人」かもしれない。

もしかしたら、ちょっとかわいそうと思う人もいるかもしれない。

 

でも、これが私の今世で、この家族、この「父」を選んで生まれて来て、何かをやり遂げたような、変な達成感の様なものが自分の中にあるの。上手く行かなかったことも色々あるし、失敗もいっぱい。だけど、それなりに、自分が決めたであろう課題に取り組んだ。そんな気がするの。

父も母も私を憎み嫌っている訳ではなく、家族がこんな風になり、私に会う事も出来なくなったことは、きっと、とっても悲しい事だとも思う。私も悲しい。

喜びだけが、人生の醍醐味じゃないと思うの。

悲しみや苦しみがあるから、人は考える。考えないと何にも気づかない。

もしかして、気付けたときに、何かが解けて、それもスピリチュアルでは「学び」と言っているのかもしれない。その後、実践に移せればいいのだろうけど、私はここまでだった・・・けど、妙な達成感があって、幸せかも、とか、妙に納得している日々がある。

それが何だか、今もよく解らない。確信はない。思い込みとか妄想かもしれない。

その、妙な達成感と、幸せだという感じが、とても不思議な感じなんだ。

 

幸せって、なんだろう・・・と。

ひとりひとり、それぞれの魂、生まれて来た意味や理由は違うんだと思う。

世の中は形としての幸せ。幸せのモデルのような物を提供してくれる。その時代時代で幸せのロールモデルのような物を提示する。

幸せのロールモデルを与える事で、自分の求めているものが解らない者たちにとっては、生きる方向性を持つことも出来る。でもそれがその人にとっての幸せとは限らない。

そのロールモデルをいかに利用してお金を作るかというのにも使われもする。

 

それぞれの魂が生まれる前に決めた事。

それがどんな人生であれ、自分が決めた事、やりたかった事、学びたかった事、助けたかった事、恩返しをしたかった事、があって生まれて来て、その想いから外れきれない人生を歩めば、もしかしたら上々なんじゃないか。

 

物欲も、承認欲求も、減ったら、何をモチベーションに生きて行けばいいんだろう・・・。最近は食欲も少し減った。

近頃は、この仕事をさせて頂けている事に喜びも感じる。

何かの連鎖を解こうと、心や魂の仕組みを考え、日々悶々と考えている自分。時々、お客さまから感謝をしていただける、仕事。

これも父を選んで生まれた理由なのだと思う。

 

いや、解らない。

自分の魂が、何を決めて生まれて来たのか。

人がいう、幸せや価値観に惑わされないよう、自分の心に耳を傾けるしかないのかな、と思う。

人に騙されたり、踊らされるよりも、自分に騙され、自分が好きで踊るなら踊った方がいい。と、私は思うんだ。

外部のノイズを減らし、自分の心にしっかり耳を傾けちえると、そのうち自分に騙される回数も減るような気がする。

 

幸せのロールモデルからかけ離れた私が言う事には説得力はないかもだ。えへ。

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写真は、私。すでにオッサンっぽいんですわ。

オッサンは、やっぱりオッサンで、オッサンぽく生きて来たと思ふ。

こんなちいちぇのが(いやデカい)、よくここまで生きて来たなぁと。

何か理由があって、自分が選んで生まれて来たんだろうね。そして、老いていき、この子の生は終わるんだよね。いつの日か。その時まで、しっかり自分に耳を傾けながら歩んでいきたい。