以前、「どうして生まれて来たのか|両親がセックスをしたから」と書きました。

過去の記事をあまり読み返したくないので、何書いたっけ。

この数週間、ちょっといろいろ考えこんでて、この数日で、この事↑をまた、前よりもう一歩踏み込んで考えていました。

仮説というか、色んな考え方をしてみる、違う角度から考えてみるという事として。

私たち、それぞれが生まれて来たのは、「両親がセックスしたから」。物理的にはこれに尽きるのだと思う。

今回、もうちょっと考えてみたのは、「望まれて生まれたのか」「愛の結晶?」「神聖な行為?」「親にとって意味のある大切な命」などなどへの疑問です。

子供を産んで育ててない人に言われたくないとか、言うなとか、はとりあえず置いておいてください。

まず、望まれて生まれて来た人はいるかもだけど、望んだりしなくても出来た命はいっぱいあるんだと思う。とはいえ、命は大事だし、尊重されるべきものなので世間的にも、自分的にも、子供に対しても「望まれた」と言いたいし、言われたい。という心理はあるのだと思う。国家としても、人口は国力でもあるので、子供が生まれる事は良い事とするのでしょう。

昔は「子供は愛の結晶」などという言葉がありました。

今回色々考えた中で、「欲望の結晶」なのではないかと・・・。セックスをして、タイミングが合って、受精をすると妊娠をします。

セックスをするという事は、受精をして、子供の命を生み出す行為であります。

ふと気づくと、50歳を超え、よく考えると、思い出すと、まぁそこそこいろいろな経験があり、色々な人々に出会い、色々な話を聞き、色々な現実を知ります。

きれい事や理想はそれほど当てはまらない現実を経験していくと、セックスは神聖な行為なのでしょうか・・・と、考えると、それぞれ色々な理由、寂しかったからとか、NOが言えなくて受け入れたとか、欲情したとか、気持ちが良いとか、お金の為とか、セックス依存症とか、すごく、すごく、色々な理由や事情があるのだと思います。

↑上記のような理由にしても、子供が出来る可能性はすごくあります。

ゴムつけて、という一言を言えない人、言わない人、も少なくないのかもしれません。ピルを飲んでいる人も少ないかもしれません。現実は。

「子供が欲しい」と思う事なら神聖かというと、子供が欲しい、家族を作りたい、母親になりたい、というWANT(欲しい)であり、それもある種の「欲望」なのだと思うんです。というのも、欲しくても持てない人も確実にいるし、それら(子供、家族、母になる事)が欲しいと思わない人もいると思うんです。

私は食べる事が好きで、食べる情熱が結構あります。でも、食べる事に情熱があまりない人もいます。

食べる事も、セックスすることも、人間が持ち合わせる欲求の大きなカテゴリーな気がしますが、その欲求の大きさは個人差があると思います。

家族が欲しい、母親になる、子供が欲しいなどは、家族が大切で幸せの象徴だと、埋め込まれてしまっているのかもしれません。でも、よくよく考えると、家族で苦しむ人は少なくない気がします。「家族が大切で幸せの象徴」だと思い込んでいると、家族で苦しむ人はより一層もがきますし、苦しむかもしれません。

家族の事で苦しむ時、あの人たち(両親)が勝手にセックスして産んだだけじゃん、その結果が私じゃん。私は30代の頃に何度もそう思いました。

望まれたと思いたいし、大切にされたいと思う、家族は愛というか、温かく優しい物であってほしい、そうあるべきだと、願います。だけど、現実はきびしいっすね。

時代や場所によっては、家族という塊が無いと生きていけないとか、生き難いというのは確かにあると思うし、国や地域なども「家族」というくくりがある事で管理しやすいとも思います。だから「家族」は素晴しい、大切、と思って生きていけるようにすることも大事だとは思います。

でも、時代や状況の変化の中で「家族」というものが、まぁまぁ崩壊してきていて、「家族」というものを今一度、今の時代、価値観、状況、現実などなどを踏まえて考えてみたほうがいいのかもとも思いました。

特定の宗教を持っていて、その中で家族の大切さなどを説いていて、経典にそういうのがあって、その宗教を信奉しているのなら、それを信じて生きて行けばいいのだと思います。が、そういうものが日本では希薄になっているのだと思うんです。そうなると、何を信じて生きたらいいのか、となると、自分の外の何かを信じるか、自分の中の何かを信じるのかになるのかもしれませんが、自分の中の何かを信じるとか、自分を信じるというのは、結構簡単じゃなく、手探りで、一歩一歩、実験しながら経験しながら、一歩一歩、間違いながら、迷いながら、な気がします。

私たち人間は、とても不確実な現実、価値観や状況も変わりゆく現実の中で、生きているのだと思います。

そんな中で、家族が素晴らしいもの、愛を与えてくれるもの、子供は愛の結晶、などは、実は、ただの、思い込みであり、だけど、そうあって欲しいと願う、理想であり、現実ではない気がするんです。

もし、私の仮説のように、命が生まれるのは「欲望の結晶」だったとしても、だからといって、私たちの命に価値や意味が無い訳ではなく。でも、その価値や意味は親や家族から与えられるのかというと、多分そうではなく、自分が見出だしていく、とか、自分が運ぶ「運命」の中で自分が築いていくモノなのかもしれないと。

人生の価値は親が与えてくれるものではない。

生、命、を得るには、二人の男女が何らかの理由や事情でセックスをしてくれないと、得ることは出来ない。

命を得ることが出来たら、誰かが運んでくれるのではなく、自分で運ぶ。未成年であれば、保護者(たいたい親)があってその車に乗って運転してもらうしかないけど、成人をしたら自分で運ぶ。自分の足で一歩一歩歩く。その一歩一歩の過程に、色々な出会いや経験があり、喜びも悲しみもある。

親に、家族に愛されなかった、受け入れられなかった、という事は不幸なのか。

辛かったり、悲しかったりという事はあると思うけど、それは不幸ではない気がする。

色々な出会いや経験、喜怒哀楽、そういったものを経験し、味わうこと、それらが実は味わい深いと感じる事が出来たら、その人は自分の人生や命に価値を見出し、それはその人にとって意味のあるものになっている気がします。

「欲望」は良い事のイメージではない気がしますが、人間は「欲望」があって、行動が起きるのだと思います。欲望が無ければ、人間は生き難いのだと思います。だけど、「欲望」が自分で処理が出来ないほどに多すぎたり強すぎると、自分が解らなくなったり、処理が出来ないほどになったりしてしまうので、いろんな宗教では欲を抑制したりするのかもしれません。

人間の欲望を、良いとか悪いとかで判断せずに、人間とはそういうものだと理解できていたら、欲望の結晶として生まれて来たけど、それが悪いとかいいとかじゃないと思えるのかもしれません。

悪い意味ではなく、命の誕生は「愛の結晶」ではなく「欲望の結晶」で、命を得た事で色々な経験が出来るチャンスを得ることが出来た。

そう思えると、両親に愛されなかったり、受け入れられなかったことが不幸な事ではないと思えるのかもしれません。

「愛」ではなく「欲望」の「結晶」だという現実を理解できれば、親が「理想」の親じゃなかったとしても、その人生の現実を理解もしくは受け止められるのかもしれません。

そもそも「愛」というものが何なのか、自分も、親も知らずに、「愛」という「言葉」を漠然と使っていたり、きれいな良い言葉として、理想として使っているだけかもしれません。

それぞれが、ひとりひとりが、自分の命や、生きている事が意味がないとか価値がないとか思わないで、一歩一歩その人の人生をその人の足で歩んでほしいと、心から思います。

それが出来たときに、自分の足で歩んでいると実感して生きられたときに、命を与えてくれたことに感謝できるようになる気がします。

今年は終わりですね。

来年も、みなさん、よろしくお願いします。