相変わらず、ただ生きているだけの人。
それでも、日々、なんだか忙しい。
15万円の車は、パーツを赤にした。あと、錆を取って白い塗料を塗った。こびりついた汚れを取ったり、磨いたり。
珍竹林のママは車を見るなり、笑顔で「かわいい」を連発。「あなたを見ていると、お金をかけなくても楽しむことができるんだと感心する」とか。
15万円の車は、私の実用的な玩具になった。100万円の車をだされても、私はマイ玩具な車がいい。500万円の車出されたら・・・税金とか維持費が高そうなのでいらないな。
家のDIYもかなりいろいろ。
32000円で借りている家は、近所の人たちや大家も驚くほどの私仕様のお家になって、愛着が湧いてしまっている。とはいえ、やることは山の様にあり、暇を持て余す暇もない。薪を作ったりとか。
車と家と、あと同窓会のサイトの事や、薪ストーブの事などで、忙しいんだけど、今の時代、やる事、やれる事、情報量がすごく多くて、みんな、みんな忙しいんだと思う。
そう。ただ生きているだけの人。
ふと思う。私は何を焦って生きていたのだろうと。
焦ってた。
自分には価値がないと思っていて、生れた価値がないと思っていたら、何かをしないと、役に立たないと、いいことしないと、生きている価値がないと、自分で思い込んでいた。
なんだったんだろう。って思う。
ただ、生きているだけで、誰かの役に立たなくても、私には価値がないわけでもなく、価値があってというか、生きていて楽しい。
この暮らしは結構大変だけど、いろんな発見があり、いろんな問題があり、それをどう克服するかとか、そういう一つ一つが結構いい経験で退屈する暇もない。
ただ生きているだけで、いいんだと、思う。
そんな気がする。
キューバでは生きているだけで大変だった。全てが「経験」だった。ただの「経験」と思うと、泣いたり、怒ったり、弱ったり、困ったり、の全てが「経験」で、それらは今の私を作っていく「経験」だったと思う。
そういえば、近所のオッチャンがうざい。
うざいから、もう来るな、と言っても来て、楽しそうに我が家のDIYをやったり、私の愛車を磨いたりしている。
で、うざいから、殆ど虐待的な言葉を使う。
優しくしてあげないといけないのでしょうか?
そういう虐待的な扱いを他者にするする人を嫌な酷い人だと思っていたけど、優しくしたら勘違いしたり、図に乗ったりしてかなり輪をかけてうざくなるので、適当に優しくしたりしないようにかなり気を付けている。
「もうろくじじぃ!(←時々すっとぼけてる)。はっきりしゃべれ!(脳梗塞やってはっきりしゃべれないというか、気を付けたらしゃべれる)」とか怒鳴っている自分が嫌になるし、他人もひどいおばさんだと思うかもしれないが、まじ、うざいので、正直に対応している。でも、ハッキリしゃべらないと何を言っているのが全く解らないのですごくストレスになる。「ハッキリしゃべらないのなら話しかけるな!」と言っている。
時々、「やってやった」的に恩着せがましく言う事があるので、「だったらするな」という。「ウチの事やっても、いい事ないからね。やりたいなら「やらせてやる」」と。
オッチャンは、楽しそうだ。
だからやらせてあげている。
生きていて、何が良い事で、何が悪い事なのか・・・。
解らない。
とにかく、生きていればそれだけでいいんじゃないかと、思う。
いい事とかしなくても。
そもそも、「いいこと」というカテゴリーがなんかおかしい気もする。