お金のいらない社会が来るとか・・・。来ないとか。

来ようが、来まいが、私たちは、そういうものが「欲しい」と思うように、社会やメディア、多分学校教育も、そうやってる。それをわかって仕組んでいる人もいるけど、それはほんのごく一部で多くは、教育者も、社会を作る人たちも、報道をしている人、タレントも、それがいいことや、ある意味「成功」と信じてると思う。

以前私がまたしても、なんかやってた時に、ある友人に、「認められるようになるといいね」と言われたの。

その時に、ハッとした。「認められる事」は大きな価値基準というか。その人は本当に私のことを思って、そう言ってくれたのだと思う。

私は、いつも、お金があまりない。気の毒がられることがよくある。下に見られる事もあったり、自分も周りと比べてしまうと、惨めな気持ちになる事もある。だけど、私たちは「欲しい」と思わされることによって、それが向上心とかいうものに繋がるとか、、、。そもそも、向上心というのがいい事のように言われることが、不思議かもしれない。

上に・・・昇る?

そして、頑張って昇った人は。無理して頑張った人は、若しくは、中途半端にしか登れずにいた人は、結構・・・マウント取るというか。

そうやって、悔しい思いをして、させて、また競争もして、登ろうとする。

多分、私は、20歳くらいの頃に、そういうのが嫌だと気づいたけど、社会のシステムや、人々はそうだったから、そういう中にいないと生きてはいけなかった。そうしないと生活費を稼げなかった。そして、そうすることが、当たり前だと、信じていたと思う。

仕方ないのだと。

40歳を過ぎて、キューバで暮らした。ものが不足した貧しいと言われる国。あるものをうまく活用して生きていく。その時に、どれくらいのものがあれば、私は生きていけるのだろうとか考えた。それで気づいたのが、無きゃないで、なんとかなるというか、するし、選択肢が少ないということは生きやすいと思った。

日本に帰ってくると、何かを買う時にも、色々と調べ、性能を比較し、レビューを見て、価格を比べて、買う。そういう労力はいらない。比べるものがないから。ないから、仕方ない。私はそれが結構心地よかった。

本当に必要で、キューバで手に入らないものは、日本に帰国した時に買って持っていけばよかった。持っていける荷物も限られているので、本当に必要だと思うもの、欲しいと思うものを買っていく。

いつもあまりお金がない私も、キューバにいると、お金がある人の立ち位置だった。私はキューバ人に、ケチと思われていたようだ。タクシーにも乗らず、ローカルバスに乗り、携帯電話の料金を倹約する。外国人が行くようなレストランには行かず、現地の人が行く食堂に行く。

それにお金を払う価値がないと思っていたのだと思う。私にはそれは価値がないから、払いたくないと。

ケチで、驚かれていた。

でも、「外国人」だから、お金があると思われている。そうすると、いろんな人が近寄ってくる。そして、騙されたり。ちょっと嫉妬されたり。色々難しい、面倒なことがあると思った。

日本ではいつも、お金があまりない、気の毒だと思われていた私は、私を騙そうとする人は寄ってこない。お金の面では気の毒と思われているので、嫉妬されないし、たかられない。お金があまりないと、いろんな社交に誘われないし、断り易くもなる。

私はお金が多少あっても、ローカルバスに乗るし、無駄な外食はしないんだと、自分で自分を知った。

ちなみに、キューバは「欲しい」と思わせる仕組みは国は作らない。フィデル自身が、エネルギーを節約できる圧力鍋を推奨し、すべての電球をLEDにした。だけど、インターネットや外国人、お金のあるキューバ人たちの持ち物や、行動を見て、欲しいと思うんだと思う。

「欲しい」と思う気持ち。それがどこまであるのか。それが尽きない限り、多分、自分は持ってなくて、貧しいと思うかもだし、「欲しい」を満たすために働いて、消費していく。

欲しいが強いと、嘘をついたり、誤魔化したり、する事も少なくなくなる。と思うんだ。

多分だけど、スーパーのお惣菜やお弁当、加工食品の原料を見ると、いろんなよくわからないものが入っている。お菓子やパンも、よくないと言われるものが色々入ってる。作って売っている人たちはわかってやっているのだろうか。多分わかってるけど、それをまともに考えていたら、仕事ができないし、暮らせないんだと思う。

私は、ほんと、あまりお金がない。けど、まぁまぁ、結構、お金がある人の家に行くと、「私の方がいいもの食べてる・・・」と思ってしまう。「いいもの」というのは、できるだけよくわからない添加物が入っていなかったり、生きた新鮮な野菜だったり。手作りなものとか。

お金がまぁまぁあっても、結局は、時間がないと、手間をかけられないと、添加物とか、エネルギーの死んだものとかを食べるしかない。

 

この前、野良猫のことで、ある人が、「みんな、生活に余裕がないのよ。子育てもしてるでしょ。(だから出来ない)。」と言った。

家も、車もあるし、多分、私より色々買って食べれてる。

3万2千円の借家で、15万円の軽貨物に乗る私より、いろんな物を持ってる。「欲しい」を追っかけたら、余裕はなくなる。でも、生活必需品ではないものを「欲しい」と思ってもらって、それを買ってもらったり、手にしてもらう事で、消費の経済が周るし、税金が発生する。そういう仕組みなんだと、ある日気づいた。

 

子供の教育費が、特に大学の費用が、ということよく耳にする。

教育。特に大学、って、これも、なんというか、商売というか。この記事に書いたように、政治、歴史、世界の仕組み、の認識が変わると思う。高卒の私に言われても、説得力ないだろう。でも、大学とか、専門学校に行かなくて良かったというか、必要なかったなぁと、私の人生の場合は思う。多分、私の場合、大学に行って学んだ事のほとんどは、なんか違うし、大人クソだなぁと思ったかもしれない。アメリカの音楽大学に行けなかった、そんなお金も英語力もなかったので。でも、したかった経験はほとんど出来た。大学に行っても会えないミュージシャンとの、経験、レコーディング、そして何よりも、心の交流をした。そこから学んだことはすごく大きいし、大学では学べなかったと思う。でも、学歴というのが低いことをちょっと馬鹿にされるというか、下に見られたり、扱われることはある。

その人の魂が本当に必要としている経験や、出会いは、自分に正直であれば、巡り合う。それは、私だけに起こる事ではなく、みんな、誰にでも起こることで、これからの時代はそれがもっと顕著になるように感じる。

大変化の時①|政治、歴史、世界の仕組み、価値基準が変わると思う。

以前知り合った、IT関連の人。彼は学生時代すごく勉強して、成績も良かったらしい。彼は、出張で世界のあっちこっちに行っていた。インドや東南アジア、アメリカのシリコンバレー・・・。で、いろんな国に行くうちに自分が学んで、覚えてきた歴史がおかしいと感じ始めたらしい。

私は、全く勉強できなくて、記憶力が悪いから、記憶して勉強しようって思わなかったから、そういう頑張りや努力をしてこなかったのね。でも、彼は学校で教えられたことを信じて、すごく頑張って勉強したのだと思う。だから、歴史がおかしいと感じた時、知ったとり、否めなくなった時、すごく苦しんだようだった。

頑張って、覚えて、勉強して、競争して、きた人ほど、ショックは大きいのかもしれない。

じゃぁ、頑張らない方がいいのか、努力しない方がいいのか、というと、その方向、やり方が、今までとはすごく違ってくるような気がするの。

「大学」というのに行っても、どうしてそこに行きたいのか、何を学びたいのか。それを学べるのか。それがないのに、大学に行くこと、ましてや奨学金というローンを組んでいくことに意味があるのか。何十年も返済が続く。

本当に何がしたいのか、何が好きなのか、何を知りたいのか。

 

以前、ニューヨークの世界貿易センターがテロに遭った後に知り合った、ハーバード大学を出た人に、「あれおかしいですよね」と言ったら、アメリカ寄りな、本質と外れたことを言われた。彼はそう信じてた。多分、ハーバード大学に頑張って入って、それが彼の誇りでもあったんだと思うの。だから、私が言ったことを快く思ってないみたいで、縁が切れた。

イェール大学を出て、ワシントン大学かなんかで歴史の博士号取ったのに、ミュージシャンをしていたユダヤ人の友人がいて、イスラエルに関する本を読んで欲しいともらった。読んでみたら、シオニズムというのかしら、イスラエルを正当化している、私からみたら偏った本だった。

いい大学を出たから、社会的地位や名声があるから、と、その人が素晴らしいというか、正直とか、誠実とか、そういうのとは限らないし、何を信じているかは、それぞれなんだと思う。

これから、数年の変革期は、今までの価値基準で判断して、目指したり、競争したり、学費を費やしても、そこに意味や価値がどのくらいあるのかはわからない。価値基準が大きく変わっていっているから。

それは、多分、誰かが教えてくれることはなくて、自分の心に向かい合って、耳を傾けるしかないんだと思うんだ。

一個前の記事に書いたように、名声があっても、名声を得られても、それが人間として誠実さや正直さを持っている人とは限らないし、今まではそれをいかにそう見せることができるかの人が成功してきたような気がする。でも、きっと、そういうのが誤魔化せないようになるんじゃないかって思う。

年の瀬に、伝えておきたいことを書こうと試みたけど、なかなか上手く書けなかった。でも、伝えたいから書いてみた。

ずっと言っているように。人がいうことを鵜呑みにしちゃいけないよ。私が言っていることも、鵜呑みにしちゃダメよ。何が正しいとか、何が間違ってるとか、何が悪いとかじゃなく、それぞれが、それぞれの道を生きている。誰かがジャッジしても、人は変われない。自分で気づいて、自分で変わろうと心に決めても、なかなか変われなかったりする。

自分が信じてきてことや、経験を新しい経験で塗り替えるというか、積み上げて、徐々に変わっていく。

今までと大きく違うのは、正解はなく、人が教えてくれるわけじゃなく、自分の心に耳を傾けて、その人のその段階をただ一歩一歩歩む。自分にできるだけ嘘をつかないように。それでも自分に騙される。だから、自分に嘘をつかないのではなく、できるだけ嘘をつかないように、耳を傾けて、一歩一歩歩く。

そうやって歩いていたら、どんなに世界が変わっても、それに振り回されず、自分の人生を歩めると思う。

お金も、名声も、地位も、肉体を離れたら、意味がないと思う。それに囚われていると、多分、次の世界、次の次元、次の段階に行けないかもと思う。だけど、その段階で、それが必要な人もいる。だから、ほんとに、何が正しいとか、間違ってるとか、ってないんだ。

ぐるぐる回ってきたね。

じゃぁね。

 

写真は、その辺の木を切って暖を取る我が家。ちなみに、木は、1〜2年乾燥させないといけない。結構色々大変だけど、いろんなことに気づくし、学ぶ。