母にも記憶がない祖父、善太郎さんの供養をして、しばらくして、ふと、善太郎さんの戸籍を眺めていた。

「眺める」というのも、戸籍の記載の文字がとても読みにくく、昔っぽい表記があって、わかりにくい。でも、ちょっと読解してみようと、頑張ってみた。その戸籍は善太郎さんが筆頭主で、お母さんや妹たちが入っていた。それで気づいたんだけど、お父さん(曾祖父、留次さん)はいない。よくよく読んでみると、協議離婚をしたようだ。それで新しい戸籍を作り、善太郎さんが筆頭主になったんだとわかる。長女と次女の記載もないので、以前に亡くなったか、留次さんと一緒に行ったのか・・・。

戸籍謄本というか、見ていると、いろんなことが分かってくる。

離婚して8年後に曾祖母のミねさんは、再婚をして兵庫県へ。

三女と五女は養子縁組で戸籍を出ているとある。四女はミねさんと一緒に。

 

祖父の善太郎さんは、祖母が別の男の人の子供ができたようで、協議離婚となっていて、その後56歳で孤独死をしてたようだった・・・。曾祖父、留次さんはどこに行ったのだろう・・・どうやって死んだのだろう・・・。

翌日、市役所に行って、留次さんの戸籍を探したけど、見つからなかった。

留次さんは、家族を置いてどこかに行ったのかもしれない。それで、ミねさんは生活に困ってとかで子供達を養子に出したのかもと。か。考える。

とにかく、留次さんのことは見つからなかった。

曾祖父母、留次さんと、ミねさんの卒塔婆を書き、とりあえず、善太郎さんを挟んで並べてみた。

何をお供えしようか・・・。日々、畑や家のことと猫のことで忙しく時間が経つ。

今朝、スーパーに行くと、お手頃な価格の煮付けに良さそうなお魚があった。ご飯を仕込み、白菜を煮浸しにし、魚を煮付けた。

まるいしおにぎりを作り、おかずを並べ、この前作った柿の葉茶を淹れた。留次さんと善太郎さんには、日本酒を少し。

 

ロウソクをつけ、お線香を立て、手を合わせた。

心経をいっかん。というのも、前回、善太郎さんの供養の時に、お経をあげることよりも、善太郎さんを感じ取り、会話し、同じ時を過ごすことのほうが、なんか、大切な気がした。だから、お経は般若心経を一回だけで、静かに手を合わせた。

お供えをして、15分くらい経ったかな。私もお腹が空いたので、床の間に置いている卒塔婆の前で一緒に食べることにした。床の間の前で畳に座り、一緒のものを一緒に食べることにした。

「愉快じゃ。愉快じゃ。こんな愉快なことはない」

愉快?もう私たちはあまり使わない言葉かもしれない。面白おかしいこと?え?気になったので検索をしてみた。

「気持よく楽しいこと。」とあった。

彼らの間に何があったのか、私は知らない。あった事もないし、母にも記憶にない人たち。戸籍を見る限り、あまりいい関係ではなかった、と思う。

留次さんとミねさんが離婚したのが1912年。留次さんは、もしかしたらそれ以降、息子の善太郎さんやミねさんには会ってないのかもしれない。

100年以上経った今日、3人の名前を、卒塔婆を並べ、お茶を並べ、同じ器に入ったものを一緒に食べた。

私は、ガツガツ食べた。いっぱい食べた。

ミねさんは、優しく、笑顔で「いっぱいお食べなさい」という。

「愉快じゃ。愉快じゃ。こんな愉快なことはない」と何度も何度も聞こえる。留次さんだと思う。善太郎さんの陽気さは、この人から受け継いだものだと感じた。

今肉体を持って、ここに生きてる私の命は、彼らのいろんな物語の延長にあって、私の中に、血の中に、彼らは今も生きているのだと思う。母の記憶になくても、時空を超えて、彼らはいるのだと思う。

感情解放プログラムの中では、必要があれば、亡くなったご両親の供養をする。供養といっても、私が卒塔婆を書いて、お経をあげて供養をするのではない。亡くなった人たちは、お金を払って、私やどこかのお坊さんのお経よあげてもらうことよりも、子孫や我が子とお茶をしたり、語り合ったりしたいのだと。私は思う。この作業というか、ワークをしていると、徐々に、亡くなった人とその人のチャンネルがつながる。私がお手伝いできるご供養は、こんな、そんな形。

会ったことも、話を聞いたこともないミねさんは、優しく、笑顔で「いっぱいお食べなさい」という。

会ったことも、話を聞いたこともない留次さんは、「愉快じゃ。愉快じゃ。こんな愉快なことはない」と笑う。

私の命に繋がれて、生きていることに、いろんなことを感じ、考え、生きていることに、心から感謝する。

そう・・・感謝は「するもの」ではなく、湧いてくるもの。

「感謝」が湧いてきて、私の心と体、細胞は感謝に満たされる。

私流の供養かもしれないけど、私はこれでいいのだと思う。これがいいのだと思ってる。