先日、感じた。ちょっと不思議だったこと。

最近、食事をする前に「いただきます」と手を合わせていうようにしてる。

食い意地が張っている私は、すぐに言い忘れて、二口くらい食べて慌ててやったり。

よくないんだけど、食事の時は、PCで動画を見たりする。これは、ひとり暮らしを始めた19歳の頃から。当時はテレビね。でも、食事の時には、食事に集中するのがいいと聞き、時々PCを消すように心がけています。

食事に集中するというのは、食べるもの、食材などに意識を向ける。その時に、テレビとかがついていると、意識がテレビに行くでしょ。

そんなことをしていたある日。「いただきます」と言って、心を静かにして、食べ物に意識を向けた時ね。

その食べ物が、ここに来るまでの物語、のような、ビジョンが見えたのよ・・・。

大規模農園で、農薬を撒いてる風景。これは多分海外ね。小麦とか、大豆だと思う。

工場で、機械的に作られているシーン。

その日の玉ねぎは、友人のお母さんが作ったもの。楽しそうな風景なの。

自分の庭の野菜は、プロセスを知ってる。プロセスを知ってると、日々の感謝を伝えやすい。

ふと考えると、私たちは、食べ物を自分で作る事がほとんどできない。

他人の、「人の手」で作られたものすら、少ない。

多くが、商業的に、効率を重視し、機械で作られる。

人間が作ったとしても、多くの場合、商業的に、効率を重視し、機械的に作られる。

食べるものが、作り手のエネルギーや思いを反映すると、感じたのは、キューバでダニーのお父さんのご飯を食べていた頃。

キューバの野菜は、ソ連崩壊後に化学肥料や農薬が入らなくなり、フィデルカストロは、国民に家庭菜園を、家の庭はもちろん、ベランダや、窓際、家の前、あるスペースを利用して作るようにといった。国は、有機栽培に取り組んだ。

ものがないから、人間の手でやる、しかない。

だからか、ニューヨークや日本で食べるものとは、違ったのかもしれない。

あのビジョンを見て、私たちの食べるもののほとんどは、人間の、作り手のエネルギーや、思い、植物や動物の自然のエネルギーや思いがない、ものだと、気づいた。

最近は、「F1」と言われる、組み合わせて作られた種じゃなく、「固定種」や「在来種」の種をいくつか使ってみたりもしてる。「F1」は作りやすく、便利だとは感じる。

自然に近いものを食べる。

それが、とっても、とっても、とっても、面倒な事で、今の日本というか、多くの先進国と言われる国では、難しい事だと気づく。

きっと、江戸時代より前は、多くのものを人間が、手で作ってたんだと、思う。

そうそう、工業的に、効率で作られた不自然な野菜たちは・・・栄養が違う。少ないというか、薄っぺらい。ほんとだよ。

そういえば・・・と思い、「地球少女アルジュナ」というアニメを見なおしてる。

Youtubeでもみれるから、検索してみて。


写真は、数日前の夕食。

庭の玉ねぎの味噌汁。

庭のキュウリを塩酒粕の浅漬けに。

買ってきた納豆に、庭の大葉と、オクラに家の前でとれた梅の梅酢をかけたよ。

玄米は、水が滲みやすいように、家庭用精米機ですこーしだけ、傷をつけてる。

醤油や味噌、納豆は、だしや昆布は市販のもの。

それでも、この日はかなりいい感じね。

 

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