猫たちの事。
なんで、こんな事をやっているのか、ほんとに、よく解ってない。
でも、今まで考えもしなかった事を考えたり、感じたりする。
人は結局、頭で考えるとか、想像するとか、予定とか、そういう物は何の身にもならず、経験した事だけが魂と心に刻まれるんだろうなとか。

最近、非常につらかったのは、ご飯をあまり食べないネーラという黒猫をちょっと面倒見たんだけど、相性が良くなくて、かなりイライラして、家から出した。ら、家の前でストーカーみたいにいつも待たれて、リラの様子もおかしくなって、マジイライラして、ネーラを抱えてもともといたところに連れて行ったら、翌日また家の前に居て。マジ、嫌で、洗濯ネットに入れて猫の事を一緒にやっているご近所さんの家に連れて行って「もういや!お願いします!」と。

その時の「罪悪感」はつらかったわ。
虐待している気になるし、責められそうだと思うし、自分をひどい人たとも思う。捨てたくなる人の気持ちも辛いもんだと思った。

今は、ネーラはご近所さんの家の周りでメイと暮らし、落ち着いています。

ネーラとメイ

リラとリラのお母さんヴェガは、毎日朝と夕方に私の家の玄関の前にいます。そうすると、情が移るというか、かわいいとか、気になったりとかして、リラに何かあったらどうしようとか。でもね、そういう事を含め、人間って、考えたり、想像してもあまり刻まれず、実際にそれが起こった時に、心が動いて、現実として体験して、経験して魂に刻まれるんだろうなと。

時々思うんだ。私のようなジプシーな、あまり定住できず、この家だってボロでいつ出なくちゃいけなくなるか解らない。「生涯責任をもって飼える人」といっても、自分の体の事や未来の安定など、ほんとに解らない。最近思うのが、今、目の前に、S井さんが置いて行った猫たちがいっぱいいて、出来る事だけ、出来る期間だけ、1年とか2年とかでもいいんじゃないかって。それは無責任という人もいるけど、S井さんが置いて行った猫たちが、新しい縁の中で私たちと関わりながら暮らしているように、私に何かあったら猫たちはまた新しい何かの中で暮らすんじゃないかと。その状況が過酷だったとしても、1年とか2年を、安全に、また互いに影響し合って暮らすことが出来たら、それは猫にとっても、私とか人間にとっても、経験を得て・・・。その経験をする事、悲しんだり、怒ったり、喜んだり、かわいいと思ったり、心配したり、それが、人生を豊かにしているって事なんじゃないかって、最近思うんだ。

もし、わたしが「責任」というものを背負って、「無責任」と責められたくないからと、関わらなかったら、私は今の「経験」、心の中で起こる事を経験することはなかった。

だからさ、リラを見てると、「ありがとう」って思うんだ。経験をくれたんだって。私の人生というか、魂はその経験を得る事で、もっと豊かになって行っている気がする。

結局、どうにもできなくて、リラたちと別れなくちゃいけなかったり、病院に連れて行くお金がなかったり、自分を責めたりとか、苦しい事もあるかもしれない。リラも私とのお別れを悲しむかもしれない。でもさ、それも、「経験」で、きっとさ、私も、リラの魂も、豊かになっていくんだと思う。

ダニーのパパだって、まじで、貧乏で、きったない感じのじいさん。パパは亡くなるまで私の事を想ってくれてたって。私はちょっと不義理をした。罪悪感を持ってたりもした。でも、多分、義理を果たせなかったことが「悪い」のではなく、そういう出会いと経験を得られたことが、私を豊かにしてくれた。

「今」という時を、共有している。

未来は解らない。

解らない未来に、責任を持てと言われたり、責められたら、何もできない。

何も出来なかったら、経験は出来ない。

経験出来なかったら、魂に刻まれることはないと思う。

私は何でこんなことをやっているのか、よく解らない。だけど、キューバにいる時も、よく解ってなかった。今はきっと解らないんだと思う。魂に刻まれたら、気付くのかもしれないね。

 

そうそう、近所に目やにのひどい仔猫がいて、昨日友人に薬を分けてもらった。このままにしていると失明する可能性もあるらしいけど、今のうちに薬を与えておくと失明しないらしい。どうしたらいいか、解らないのではなく、その友人が居たから、次にできる事があった。面倒だし、私に関係ないし、無視しておくことも出来たけど、無視できない自分がいた事が、意外だった。

何かが目の前に起きた時にどう行動するのか。自分の事すら、よく知らない。あと、流れもあると思う。

でもさ、ほんと、なんでこんな事をしているのか、よく解らない。